専門的な技能や技術を要する企業などでは、労働者が退職するのを防ぐために退職を申し出た労働者に対して「退職するなら技術指導料として○万円を支払え」などと高額な金銭の支払いを請求するケースがあります。
代表的な事例としては、美容師の見習いとして美容院に勤務する労働者が退職を申出た際に、経営者から「退職するなら今まで美容師業務を教えてやったんだから技術指導料として1日あたり〇円を支払え」などと請求されるケースが挙げられます。
このように専門性を有する業種では、労働者が「見習い」として「技術指導」や「研修」を受けるのが通常ですので、その対価として「技術指導料」や「研修費用」を請求された場合にはそれを支払う必要性があるような気もします。
しかし、そのような「技術指導料」の請求が認められてしまうと、その請求を受けた労働者が退職に支障を来たし、その意思に反して就労を強制させられてしまう可能性も生じることから、法律で明確に認められた「退職の自由(民法627条1項)」や「強制労働の禁止(労働基準法第5条)」が侵害される結果となり不都合ともいえます。
そこで今回は、退職する際に使用者(会社)から技術指導料や研修費用、手数料等の名目で金銭を請求された場合それを支払わなければならないのか、またそのような請求を受けた場合には具体的にどのように対処すればよいのか、といった問題について考えてみることにいたしましょう。
あらかじめ技術指導料の支払いに承諾していたとしても支払う必要はない
前述したように、専門的な職種等では退職する際に「技術指導料を支払え」などと請求されるケースがありますが、あらかじめ「技術指導料を支払うこと」に承諾をしていたとしてもそのような技術指導料を支払う必要性はありません。
なぜなら、そのような承諾自体が労働基準法第16条の「賠償予定の禁止」の規定に抵触することになるからです。
使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。
悪質な会社では、労働者を雇い入れる際に「〇年以内に退職する場合は入社月に遡って1月あたり○万円の技術指導料(講習手数料)を支払います」などと記載された承諾書に署名捺印をさせておき、退職する際にその誓約を根拠として技術指導料等の支払いを求めることがありますが、そのような誓約は「損害賠償額を予定する誓約」であることが明白であるため、労働基準法第16条の規定に基づいて無効と判断されることになるのです。
したがって、あらかじめ「技術指導料を支払うこと」に承諾をしていたとしても、そのような誓約や承諾は無効といえますから、技術指導料を支払う必要性はありませんしその義務もありません。
なお、この点については過去の裁判例でも同様に判断されており、美容室に就職する際に「勝手わがままな言動で会社側に迷惑をおかけした場合には…(中略)…指導訓練に必要な、諸経費として入社月にさかのぼり一か月につき金四万円也の講習手数料を御支払いいたします。…」と記載された誓約書に署名捺印していた労働者が、会社の意思に反して「勝手わがまま」に退職し会社から高額な「講習指導料」を請求された事案で、そのような誓約が労働基準法第16条に違反し無効と判断されて会社側の請求が棄却されたものがあります(サロン・ド・リリー事件:浦和地裁昭和61年5月30日)。
ちなみに、事前にそのような「技術指導料の支払い」について説明を受けておらず、あらかじめ「技術指導料の支払い」について承諾していない場合には、「技術指導料を支払わなければならない」という義務(債務)自体が労使間の労働契約(雇用契約)の内容となっておらず、そもそも労働者に「技術指導料の支払い」という債務自体発生しないことになりますから「技術指導料を支払え」と請求されること自体根拠のない請求(いわば架空請求とおなじ)となり、そのような請求に応じる必要はないといえます。
退職する際に「技術指導料を支払え」と請求された場合の対処法
上記で説明したように、仮に入社する際に「退職する際は技術指導料を支払います」などといった誓約をしている場合であっても、そのような誓約は労働基準法第16条に基づいて無効と判断されますから、そのような技術指導料の支払いを請求されたとしてもそれを拒否することが可能です。
しかし、悪質な会社ではそのような法律の規定などお構いなしに支払いを求めてくる場合も有りますので、そのような会社に対しては何らかの対処が必要になってきます。
なお、このような場合の具体的な対処法としては以下のような方法が考えられます。
(1)通知書を送付する
退職する際に「技術指導料を支払え」などと請求されている場合には、その請求に応じる義務がないことを説明した”通知書”を作成し使用者に送付してみるのも一つの方法として有効と考えられます。
口頭で「指導料を支払う義務はない!」と説明して埒が明かない場合であっても、文書(書面)という形で改めて正式に通知すれば、企業の側としても「なんか面倒なことになりそう」と考えて請求を撤回することもあり得ますし、内容証明郵便で送付すれば「裁判を起こされるんじゃないだろうか」というプレッシャーを与えることが出来ますので、改めて通知書という形の文書で通知することも一定の効果があると思われます。
なお、この場合に会社に送付する通知書の記載例はこちらのページに掲載していますので参考にしてください。
(2)労働基準監督署に違法行為の是正申告を行う
使用者(会社※個人事業主も含む)が労働基準法に違反している場合には、労働者は労働基準監督署に対して違法行為の是正申告を行うことが可能で(労働基準法第104条第1項)、その場合、労働基準監督署は必要に応じて臨検や調査を行うことになるのが通常です(労働基準法101条ないし104条の2)。
事業場に、この法律又はこの法律に基いて発する命令に違反する事実がある場合においては、労働者は、その事実を行政官庁又は労働基準監督官に申告することができる。
この点、前述したように、入社する際に「技術指導料を支払うこと」を承諾する誓約書などに署名押印していることを根拠として退職する際に「技術指導料を支払え」などと請求されている場合には、その承諾自体が労働基準法第16条の「賠償予定の禁止」の規定に違反するものとなりますから、その労働基準法に違反することを理由として労働基準監督署に違法行為の是正申告を行うことが可能となります。
なお、この場合に労働基準監督署に提出する違法行為の是正申告書の記載例についてはこちらのページに掲載していますので参考にしてください。
(3)労働局に紛争解決の援助の申立を行う
全国に設置されている労働局では、労働者と事業主の間に発生した紛争を解決するための”助言”や”指導”、”あっせん(裁判所の調停のような手続)”を行うことが可能です(個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律第4条第1項)。
都道府県労働局長は(省略)個別労働関係紛争の当事者の双方又は一方からその解決につき援助を求められた場合には、当該個別労働関係紛争の当事者に対し、必要な助言又は指導をすることができる。
この点、退職する際に「技術指導料を支払え」などと請求されている場合についても、「技術指導料を支払う義務はない」と主張する労働者と「技術指導料を支払え」と主張する使用者(会社)との間に”紛争”が発生しているということになりますので、労働局に対して紛争解決援助の申立を行うことが可能になると考えられます。
労働局に紛争解決援助の申立を行えば、労働局から必要な助言や指導がなされたり、あっせんの手続きを利用する場合は紛争解決に向けたあっせん案が提示されることになりますので、事業主側が労働局の指導等に従うようであれば、会社側がそれまでの態度を改めて技術指導料等の請求を撤回する可能性もあるでしょう。
なお、この場合に労働局に提出する紛争解決援助申立書の記載例についてはこちらのページに掲載していますので参考にしてください。
▶ 退職時に技術指導料を請求された場合の労働局の申立書の記載例
(4)弁護士などに依頼し裁判や調停を行う
上記のような手段を用いても解決しなかったり、最初から裁判所の手続きを利用したいと思うような場合には弁護士に依頼して裁判を提起したり調停を申し立てるしかないでしょう。
弁護士に依頼するとそれなりの費用が必要ですが、法律の素人が中途半端な知識で交渉しても自分が不利になるだけの場合も有りますので、早めに弁護士に相談することも事案によっては必要になるかと思われます。