精神的には女性だけれども身体的には男性であったり、身体的には女性だけれども精神的には男性であったりする精神と身体の性に相違がある症例を性同一性障害(性転換症)といいます。
多くの人に認知されてきた性同一性障害ですが、実際の社会生活では未だに差別や偏見が残っているのが現状かもしれません。
たとえば、性同一性障害の人が女装(男装)して出社した場合であっても、多くの会社では性同一性障害への理解を示すことなく女装(男装)をすることを止めさせ、男なら男の、女なら女の服装で出社するよう命令することが多いのではないかと思われます。
女装(男装)を禁止する理由は様々でしょうが、「男は男の格好」で「女は女の格好」で働くことが”常識”であり、戸籍上の性と違う服装で出社することは企業の風紀を乱し企業秩序を損なうことになるというのが主な理由なのでしょう。
しかし、性同一性障害に悩む人にとっては、自分が感じている本来の性と異なる性の服装を着用することは多大な精神的苦痛を伴うものであり、そのような命令は到底承服できるものではないといえます。
そこで今回は、性同一性障害の人が女装(男装)して出社したことを理由に懲戒処分(解雇処分)などを受けることはあるか、また仮に懲戒処分を受けた場合にはどのような対処をとれば良いかなどについて考えてみることにいたしましょう。
女装(男装)を禁止する就業規則とは
「女装または男装して出社することを禁止する」などと直接女装(男装)を禁止する就業規則の規定を置いている企業はまずないだろうと思われます。
そのため、女装(男装)して出社することがどのような就業規則の規定に抵触することになるのかが問題となりますが、一般的には就業規則に懲戒解雇の事由として定められている「会社の指示・命令に背き改悛しないとき」という条文に違反すると考える場合が多いようです。
この「会社の指示・命令に背き改悛しないとき」という懲戒解雇事由の定めは、会社内部での企業秩序の維持のため会社側から労働者に指示や命令がなされた場合には、労働者はそれに従わなければならないということを意味しています。
そのため、例えば女装(男装)して出社した性同一性障害の従業員に対して会社側が「女装(男装)して出社するな」と指示・命令した場合には、これに従わなければ形式的には懲戒解雇事由に該当するということになってしまいます。
性同一性障害の人が女装(男装)して出社しても懲戒処分事由に該当しない理由
前述したように、女装(男装)して出社した性同一性障害の従業員が会社から女装(男装)をしないよう指示・命令を受けた場合に、この指示に従わないことは就業規則の懲戒解雇事由に形式的には該当することになるでしょう。
しかし、性同一性障害が医学的にも承認されている現代社会においては、会社の方でもその障害に悩む従業員に一定の配慮が求められるものと思われます。
また、仮にそのような障害の有る従業員が女装(男装)をして出社した場合に、そのことに対して違和感や嫌悪感を持つ他の従業員なり取引先なりがいたとしても、その生じる不利益は企業の業務遂行上著しい支障を来たすおそれがあるとまでは言えないと考えられます。
したがって、性同一性障害の従業員が就業規則に定められた「会社の指示・命令に背き改悛しないとき」という規定に反し、会社から「女装(男装)するな」と指示・命令を受けているにもかかわらず女装(男装)して出社したことを理由に懲戒解雇処分を受けたとしても、その懲戒処分は「無効」と判断される可能性が高いと言えます。
過去の裁判例でも同様の判断が下されており、例えば、会社側の命令に反して性同一性障害に悩む戸籍上男性の従業員が女装して出社したことを理由になされた懲戒解雇の処分の有効性について争われた裁判では、その女装して出社した従業員に服務命令違反行為があったことは認めつつも懲戒解雇に相当するまで重大かつ悪質な企業秩序違反であると認めることはできないとして懲戒解雇処分は無効と判断されています(S社事件・東京地裁平成14年6月20日)。
女装(男装)して出社することを止めるよう会社から命令された場合の対処法
以上のように、仮に会社からの命令に違反して性同一性障害が女装(男装)のまま出社することを続け、それを理由に懲戒処分を受けたとしても、その懲戒処分は無効と判断される可能性が高いと言えます。
しかし、懲戒処分が無効と判断されるからと言っても、例えばいったん懲戒処分が出されてしまえば、それが無効と判断されるまでその懲戒処分による不利益を受けてしまいますから、できれば懲戒処分をうけないようにする必要があります。
そのため、もし性同一性障害の人が女装(男装)して出社した際に会社側から女装(男装)して出社することを止めるよう指示・命令された場合には次のような対処を取ることが重要となってきます。
① 性同一性障害への理解をしてもらうよう説明する
まず、女装(男装)を止めるよう指示・命令を受けた場合には、会社に対して「自分が性同一性障害であること」や「精神的な性とは異なる性の容姿で勤務することが多大な精神的苦痛を伴うものであること」を説明して理解してもらう必要があります。
会社が性同一性障害であることを知らないまま女装(男装)して出社することをやめるよう命じている場合には企業秩序の維持のためにそれを理由とする懲戒処分も正当と判断される可能性が高いと言えますから、会社に性同一性障害であることを説明し、性同一性障害への理解を求めることが重要です。
② 書面で性同一性障害への理解を求める
口頭で性同一性障害への理解を求めても会社が女装(男装)への出社を禁止する場合には、書面で会社に対して性同一性障害への理解を求めるのが賢明だと思います。
書面を利用するのは、後で裁判などになった場合に、「これだけ会社に性同一性障害であることを説明しているにもかかわらず会社は懲戒処分を行ったんですよ」と裁判官に説明する材料にするためです。
口頭で説明しただけでは録音でもしない限りそれを裁判で証拠として提出すことは困難ですが、書面で郵送しておけば後で裁判になった際にそのコピーを提出するなどして証拠として利用することが容易になります。
再三にわたって性同一性障害への理解を求めたという事実を証明することができれば、それを無視して懲戒処分した会社側が裁判で不利となる可能性が高いと言えますから、書面で説明して証拠を残しておく必要があるのです。
なお、郵送する場合は証拠が残るよう内容証明郵便で送付する必要があるでしょう。
③ 書面で懲戒処分の無効を通知する
①や②の対処をしたにもかかわらず懲戒処分を受けた場合には、その懲戒処分の無効と撤回を求める通知書を作成し、会社に郵送することも考えた方がよいでしょう。
懲戒処分を受けたまま何もしないと、その懲戒処分を承諾したことになってしまいますので、その受けた懲戒処分に納得できない場合は、会社に対して「その懲戒処分が無効であること」「その懲戒処分を撤回すること」を書面で通知する必要があります。
書面で通知するのは②の場合と同様、後で裁判になった際に証拠として使用できるようにするためです。
④ 労働局に紛争解決援助の申立を行う
全国に設置されている労働局では、労働者と会社(事業主)の間に紛争が発生した場合には、当事者の一方からの申立によって紛争解決に向けた”助言”や”指導”、あっせん(裁判所の調停のような手続)による”解決案”を提示することが可能です。
この点、性同一性障害で女装(男装)での出社を認めてほしいのに会社側が拒否しているという状況も、労働者と事業主(会社)との間に”紛争”が発生しているということができますから、労働局に対して紛争解決援助の申立を行うことが可能となります。
労働局の提示する”助言”や”指導”、”解決案”に会社側が従うようであれば、会社が態度を改めて女装(男装)での出社や勤務を認めることもあるかもしれませんので、労働局に紛争解決援助の申立を行うというのも一つの解決方法として有効でしょう。
もっとも、労働局の紛争解決援助の手続きに強制力はありませんので、会社側が労働局の提示する助言などに応じない場合には、後述するように弁護士などに相談して裁判や労働審判などを申立てて裁判手続きのうえで解決を図るほかないでしょう。
⑤ ADR(裁判外紛争解決手続)を利用する
ADRとは裁判外紛争処理手続のことをいい、弁護士などの法律専門家が紛争の当事者の間に立って中立的立場で話し合いを促す裁判所の調停のような手続きのことです。
当事者同士での話し合いで解決しないような問題でも、法律の専門家が間に入ることによって要点の絞られた話し合いが可能となり、専門家が間に入ることで違法な解決策が提示されることがないといったメリットがあります。
ADRは裁判の手続きとは異なる”任意の話し合いの場の提供”に過ぎず強制力がないため、会社側が話し合いに応じない場合には解決策として適当ではありませんが、会社側が話し合いに応じる余地があるようであれば、利用を考えてみるのも良いでしょう。
なお、ADRは裁判所の調停よりも少ない費用(調停役になる弁護士などに支払うADR費用、通常は数千円~数万円)で利用することができるため、経済的な負担をそれほど感じないというメリットもあります。
ちなみに、ADRの利用方法は主催する最寄りの各弁護士会などに問い合わせれば詳しく教えてくれると思いますので、興味がある人は電話で聞いてみると良いでしょう。
・弁護士会…日本弁護士連合会│Japan Federation of Bar Associations:紛争解決センター
・司法書士会…日本司法書士会連合会 | 話し合いによる法律トラブルの解決(ADR)
⑥ 早めに弁護士など法律専門家に相談する
上記のような方法で交渉しても解決しない場合や、自分で交渉するのに抵抗がある場合には、早めに弁護士などの法律専門家に相談することも考えておくべきでしょう。
懲戒処分が無効であると争う労働トラブルは、法律的に難易度の低いトラブルとは言えませんから、法律の素人が知ったかぶりをして会社と交渉すると、自分が知らない間に自分に不利となる行動を取ってしまい、後になって裁判がうまくいかなくなったりする可能性もあります。
そのため、場合によっては前述の上記の対処を取る前に、会社から女装(男装)をすることを止めるよう指示を受けた時点ですぐに弁護士などの法律専門家に相談する方が解決の近道になる場合もありますので注意が必要です。